【視点】公文書は誰のものか―国家の秘密主義から国民主権を取り戻すために―

公開日 2017年11月10日

長野県短期大学准教授 瀬畑 源

公文書は「国民共有の知的資源」

行政機関は情報を隠したがる

今年になって、南スーダンPKO日報文書問題森友学園問題加計学園問題と、安倍政権を揺るがすさまざまな不祥事が頻発しています。これらは一見すると安倍政権固有の問題のように見えます。不祥事に対して開き直って強弁をくり返す安倍政権の対応には問題があることは否定しませんが、もっと問題の根は深いことを理解する必要があるかと思います。そのキーワードが「公文書管理法」です。

公文書管理法はその名の通り、公文書を管理するための法律です。公文書の作成から、管理方法、そして保存期間が満了した際には廃棄するか、国立公文書館等に移管して永久に保存するかという、文書のライフサイクルのルールを定めた法律です。2011年に施行された新しい法律ですが、ご存じの方も少しずつ増えてきているのではないでしょうか。

公文書管理法の第一条には、公文書は「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」であり、「現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにする」ためにきちんと管理される必要があると定められています。公文書は民主主義のために必要であるとし、現在のわれわれ対してだけでなく、未来の子孫への説明責任のために作られなければならないとされています。

ここで考えなければならないのは、「民主主義のため」とはなにかということです。このためには、情報公開制度がなぜ必要なのかということを考える必要があります。

マックス・ウェーバーによれば、官僚は自分たちの専門知識や政策意図を秘密にすることで他の政治勢力よりも優位な立場を築き、他者からの批判を受けないようにする傾向があるといいます。プロフェッショナルである誇りを持つ一方、専門的な情報を自分たちが独占することで、他者からの批判をすべて「素人のご意見」として跳ね返すことが可能となるということです。しかも、必要以上に秘密は作られ、「職務上の秘密」という官僚制特有の概念を振り回して秘密を守ろうとします。

つまり、元から行政機関は情報を隠したがる傾向があります。情報を出せば出すほど、問題点や矛盾などが明らかになります。自分たちが行いたい政策を実行するためには、自分たちの都合のよい情報以外を秘密にする方がやりやすいのです。

よって主権者である国民は、この官僚達が抱え込んでいる情報を出させることを目指すことになります。主権者が国の政治に対して何らかの判断を下す場合、あたりまえですが、政府が何を行っているのかが分かっていなければ判断しようがないからです。

情報公開法と公文書管理法

「知識は無知を永遠に支配する」

米国では、この情報公開の理念を掲げる際に、ジェームズ・マディソン(第四代大統領)の1822年の手紙の一節が良く用いられます。

「情報が行き渡っていない、あるいは入手する手段のない『人民の政府』なる存在は、笑劇か悲劇の序章か、あるいはその両方以外のなにものでもない。知識は無知を永遠に支配する。だから、自ら統治者となろうとする人々は、知識が与える力で自らを武装しなければならない。」

主権者であろうとするためには、情報を入手して自らを鍛える必要があります。

日本では、自民党政権が長らく続いたこともあり、情報公開法制定の動きは遅々として進みませんでした。自民党は「情報は権力の源」であることを良く知っています。そのため、官僚と結託して情報を独占することが優先され、国民への情報公開に極めて消極的でした。現在でもその考え方は根強いです。情報公開法制定の動きが政治過程に乗るのは、自民党政権崩壊後の1990年代になってからです。そして、2001年に情報公開法は施行されたのです。

行政の情報公開逃れ

情報公開法によって、市民に行政情報へのアクセス権が保障されたことは画期的なことでした。少なくとも、この法律の施行後、多くの審議会の資料や議事録がウェブに上がるようになるなど、行政側も積極的に情報を公開するようになりました。その一方、権力の源となるような情報については、情報公開請求を避けるための様々な努力がなされるようになりました

ここで慣習化されたのは、行政文書を作成しない、もしくは作成してもすぐに廃棄してしまうことです。情報公開制度は、あくまでも「存在する文書」の公開を求めるものであり、文書が作成されていなければ「不存在」として処理することができます。それまでは情報公開制度がありませんでしたから、文書を見せるか見せないかは官僚側の判断でした。そのため、自分たちの作成している文書が行政文書であるか否かに神経質になる必要はありませんでした。それが、情報公開法が制定されたことで、「行政文書にする」文書と「行政文書にしない」文書を分けるという慣習ができました

公文書管理法は守られているか

情報公開法施行後に、こういった文書隠しと思われるような事例が相次いだこと、そして、消えた年金問題など公文書管理のずさんさが国民生活に影響を与えるレベルになったことにより、公文書管理法の必要が提起されました。その結果、2011年に公文書管理法が施行されることになったのです。法には文書の作成義務が定められ、「経緯も含めた意思決定に至る過程」や「事務及び事業の実績を合理的に跡付け、又は検証することができるよう」、「処理に係る事案が軽微なものを除き」文書を作成しなければならなくなりました(第四条)。

「行政文書ではなく個人のメモ」?

しかし、この公文書管理法の主旨が未だに現場ではあまり理解されていないことが、今回の三つの不祥事で明るみに出ました。加計問題に関して文科省からリークされた様々な文書を、官房長官や文科相は「行政文書ではなく個人のメモ」と言い張りました。まさに「行政文書にしない文書」を内部で作る慣習ができていたことを裏付けています。

また、森友問題で国有地を約8億円割引して売却した交渉過程の文書を廃棄したのも、行政文書として残しておくと都合の悪い文書だから、保存期間を一年未満にして廃棄したのでしょう。南スーダンPKO文書問題では、行政文書であるはずの現地部隊の日報を、「行政文書の体を成していない」という意味不明な理由で「行政文書にしない」という決定をしたのです。

こういった公文書管理のあり方は、以前から同じように行われていた可能性が高いです。他の国有地売却でも同じように途中経過の文書を廃棄している可能性が高く、「たまたま」安倍首相の後援者が絡んでいたから問題が顕在化しただけです。リークされた文書が文科官僚によって作成されたと証言した前川前文科事務次官は、この文書は上司に説明するための文書であり、行政文書ではないと悪意無く説明しています。上司に説明する文書が行政文書ではないことが、組織として常識となっているのです。

市民の監視と批判の声が政治家と官僚を変える

さらに問題なのは、その官僚をコントロールしなければならない政府が、文書をずさんに扱う官僚を庇っていることです。

安倍政権は、これらの一連の不祥事の多くにおいて、公文書管理には問題がなかったと強弁しています。説明責任を全うするという公文書管理法の主旨が、官僚だけでなく政治家にすら、あまり理解されていないということが明らかになっています。

この状況を変えるには、制度をもっと厳しくするという方法もあるでしょう。ですが、結局は現場が法律を守るかどうかが重要です。こういった不祥事におかしいと声を上げること、その不祥事を庇う政治家を批判すること、その積み重ねのなかで、公文書はきちんと作成され、管理されなければならないのだという意識は作られていきます。そのためにも、公文書管理制度への市民の側の理解度も、もっと高めていくことが大切だと思います。

(『東京保険医新聞』2017年10月25日号掲載)

◆著者プロフィール
せばた・はじめ
1976年東京生まれ。一橋大学大学院特任講師を経て長野県短期大学准教授。
日本近現代史専攻。著書に『公文書をつかう 公文書管理制度と歴史研究』(青弓社)