[視点]コロナ禍は米社会の分断を終わらせるか?

公開日 2020年11月26日

コロナ禍は米社会の分断を終わらせるか?

                     

京都精華大学 人文学部 総合人文学科専任講師 白井 聡
 

 

米国のコロナ対応失敗が物語るもの

 この原稿を書いている今日(2020年11月3日)は、米大統領選挙の投票日だ。「ドナルド・トランプ氏は敗北を絶対に認めないのではないか」、「保守派とリベラル派が街頭で衝突するのではないか」、「内乱状態に陥るのではないか」、「トランプ氏は国外脱出・亡命を強いられるかもしれない」等々の信じがたいような観測が乱れ飛んでいる。

 そしてこのような前代未聞の混乱こそ、新型コロナ危機の直接の産物なのだ。BLM運動とそれに対する対抗運動との対決をはじめとして、かつてない異様な緊張感が米国社会を覆っていると伝えられる。この状況は、累計の感染者数が924万人を超え、犠牲者数は23万人を超えたという事情抜きにはあり得なかっただろう。悲しみ、恐怖、不安、焦慮といったネガティヴな感情が鬱積し、そのはけ口を探しているという非常に憂慮すべき事態となっていると思われる。ここであらためて考えるべきは、世界で最も進んだ医療技術を持つはずの国で最も劇的に新型コロナ対策が失敗しているという事実が何を物語るのかということではないだろうか。

 失敗の理由として最も多く言及されているのは、トランプ政権の認識不足、危機に対する軽視である。しかし、それは原因ではなく結果だと見るべきだ。そうした人物が指導者に選ばれる必然性があったのであり、そちらの方が真の原因としてとらえられなければならない。同様に、トランプ政権は米国社会を分断させてきたとしばしば批判的に指摘されるが、それも原因と結果の取り違えに見える。トランプ氏が分断を促進拡大したことは確かかもしれないが、分断はトランプ政権以前にすでに存在したのである。オバマ前大統領は「すべてのアメリカ人を代表し融和する」ことを標榜し、国内外から大きな期待を掛けられた。その期待が裏切られ、分断を解消するとの約束が反故にされたとの印象が強まったことの反動としてトランプ政権は生まれた。実行できない融和を語るよりも分断に依拠しそれを活用する政治が前景化したのだった。

 してみれば、検証されるべきは分断の性格にほかならない。政治思想的アプローチからすると、ここ40年ほどにわたって米国社会を二分してきた保守派VSユーリベラル派という二大思潮の対立の延長線上にこの分断はあるように思われる。この対立は、「政治的立場の対立」と呼ぶのは不適切であるほど全般的なものとなっている。言い換えれば、この対立を銃規制や人工妊娠中絶、進化論の教育といった個別的争点をめぐる意見対立と見るのは、もはや不適切なのである。というのもそれは、歴史観、価値観、宗教観、さらにはメディア選好、食生活、聞く音楽や観るスポーツの選好といった生活の全領域における対立にまで発展してしまった。対立が個別的争点にとどまっていた限りでは、両派の対話と妥協は期待しうるものだっただろう。しかし、世界観全般と生活のあらゆる局面で、言い換えれば人間存在の全側面で、「相容れない」と感じる者同士がどう折り合いをつけられるのかは想像しがたい。

自己責任イデオロギーがもたらす犠牲

 そしてこの対立は、新型コロナ危機によって異様なかたちで先鋭化したように見受けられる。諸々の争点で形成されてきた対立は、ただ1つの対立へ向かって収斂したのだった。すなわち、「マスクを着けるか着けないか」。われわれから見ると、この対立は何か冗談のようなものと感じられるが、マスク問題をきっかけとした殺人事件までが実際に起こっているのであり、到底笑い話では済まされなくなっているのである。

 分断に引き裂かれた米国のコロナ対策が惨憺たる失敗へと導かれた際のより具体的な事情を挙げなければならない。最も重大な要因として指摘されるべきは、健康保険制度、国民皆保険制度の不在であろう。かつ、トランプ政権は新型コロナ対策の特例措置として公的負担によって検査や治療を実施する措置をとっていない。その結果、ある専門家の試算によると、無保険者が新型コロナの治療を受けると日本円で約470〜820万円の自己負担を強いられるという。無保険者(2019年末時点で約2900万人にのぼる)には貧困層が多く、人種的にはヒスパニック系や黒人が多い。彼らは検査を受けることさえできず、劣悪な住環境で感染を拡大させることとなる。2020年4月時点で、これら人種的マイノリティの重症化率と死亡率は米全体の平均を上回っていることが報告されていた。

 そして、新型コロナの感染拡大は、特定の人種コミュニティの範囲をはるかに超えて容赦なく広がる。かくして、かの「世界に冠たる」国で、先進国では常識に属する国民皆保険制度が存在しておらず、オバマ政権でもついにそれを導入できなかったことの結果を、いま人々は味わっているのだと言える。ここに現れたのは、米国が守り抜いてきた「自己責任」のイデオロギーによる犠牲の途方もなさだ。世界のどの国よりもハネ上がり、上昇し続ける死者数は、「自立」が至上価値として重んじられ、他者に依存するような生き方こそ最も唾棄すべきものだとする価値観、したがって福祉国家的制度とは「怠惰な貧者」が「勤勉に努力する富者」から富を盗むシステムであるとする価値観の帰結にほかならない。

 コロナ禍と2つの「分断」の行方

 このように見てくると、「分断」には実は2種類のものがある(両者はもちろん本質的な意味で関連するのであるが)ことに気づかされる。

 保守派VSリベラル派の分断が「分断A」だとすれば、自己責任イデオロギーが想定してきた分断は「分断B」であると言える。「分断B」は、人口を「自助努力により自立して生きている者」と「他者の働きに依存し寄生している者」に分ける。

 このイデオロギーの欺瞞性や虚偽性についてはあえてここでは指摘すまい。重要なのは、新型コロナのパンデミックは、このイデオロギーを破綻に追い込んだという事実である。なぜなら、公的支出を出し渋り、その結果感染拡大が止まらなければ、自己責任論を好む新自由主義者にも感染のリスクは襲い掛かるからだ。人間をどれほどもっともらしく2種類に分類してみても、ウィルスはその区別をやすやすと飛び越えて、区別を無効化してしまう。

 トランプ政権の新型コロナ対策が不十分であることの理由は、トランプ氏本人の性格に求められるのか、それとも公的扶助による検査や治療の拡大に反対する政権支持者への配慮に求められるのかは、筆者には不明である。いずれであるにせよ、「分断B」は粉砕された。ウィルスという物質的なものの力を前にして、所詮は観念であるにすぎないイデオロギーは無力なのだ。

 トランプ氏が「武漢ウィルス」を連呼することによって行なっているのは、イデオロギーの破綻から目を逸らさせることであり、自己責任イデオロギーがもはや存続し得ないこと、その無力さの告白なのである。そしてそうしている間にも、ウィルスは自己責任論の想定する分断を無視する。つまり、ある意味で社会を強制的に統合してしまう。人間よりも先にウィルスが新自由主義イデオロギーに勝利したことを、われわれは認めざるを得ない。

 次なる問題は「分断A」の行方だ。保守派VSリベラル派の対立も無論イデオロギー的なものである。そして、大統領選を見る限りでは、新型コロナ危機は米社会をあまりにも鋭く切り裂いた分断をあらためてまた強化している。この先鋭化は、行き着くところまで行くほかないのかもしれず、それは大統領選をめぐる混乱として展開される可能性が高まっている。

 しかし、やがてどこかの点で気づかざるを得なくなるだろう。問題に対処するためには過剰な自己責任論から撤退しなければならないことに。それは、ウィルスが事実上成し遂げた分断の撤廃を人間の意識が追認するということだ。

 米国において新自由主義の没落が本格的に始まるのかどうか予断を許さないが、その帰趨は日本に対しても多大の影響を及ぼすに違いない。

(『東京保険医新聞』2020年11月15日号掲載)