老いを生きる

公開日 2000年09月15日


9月15日は老人の日である。この祝日には、高齢者の苦労した人生を、ねぎらう意味があるのではないか。 長命になることは、一概に喜ばしい側面ばかりではない。むしろ姨捨山の話にあるように、人間が年を加えていくと、社会のために貢献する能力が落ちてくる面がある。例えば工場で生産に励む旋盤工も、30年経てば、いろいろと体の故障を訴え、慢性疾患に悩む人も多い。決して役人が税を取り立てるために言うように、誰もが裕福な老後を迎えるわけではない。

現に私が診察する老人には、片麻痺や心疾患に悩みながら、表札を書いたり焼き芋を売って、暮らしを立てている方がいる。身障者手帳を持って歩く方も多い。決して長寿は、世間から祝われる実態にはなっていない。僅かばかりの年金を使い減らしながら、誰もが苦労し、努力を重ねてやりくりして、生きていることを見落としてはいけない。むしろ長年にわたって、あらゆる困難に立ち向かいながら、ようやくそこまで辿りついたとみることができる。

東京の下町では失禁をするからといって、旅行にも行きたがらない婦人が多い。ヨーロッパではおむつをしても、夜会に平気で出て、ダンスを踊ったりするそうだ。よく介護者を家の中へ入れたがらない片意地な老人もいた。理由は取り散らかしている部屋を、他人に見せたくないためらしい。腰痛がひどいのに、手伝ってくれる人を呼ばないで我慢している人も、似たような気持ちだった。その点では、デイサービスやデイケアが喜ばれるようだ。ところが介護保険になると、回数が減らされたり、適応から外される人があるのは情けない。介護器具もヨーロッパのように、どんどん本人の残存機能に合ったものに加工して、使用させたい。そうすることこそが、自立して社会に復帰させる最短の近道であるからだ。障害を持っていても自分の生活を楽しめるようになってもらいたい。

よく言われるように、ヨーロッパでは寝たきり老人という言葉はないらしい。家庭の介護を日本のように家族やお嫁さんの手に任せることはない。専門の知識を持ち、訓練を受けた町村の職員が、朝から晩まで手分けして世話をしてくれる。その一方で、家族は毎日のように顔を見せ、励ましたり喜ばしたりして元気付けてくれるそうだ。私たちの周囲では、いったん施設に入れると、ほとんど見舞いにこない家も少なくないらしい。形式を重んじ表面を飾る風習が、家族制度のもとで根強くあるのかもしれない。

老人の生き方についても反省すべき問題は多い。一番大事なことは、老人自信が老化してきたことを素直に受容することができないか。足や腰に障害が出てきた方は、早く不自由に馴染む心が大切だと思う。最近では車椅子にのって買い物をする人をよく見かけるようになったが、喜ばしいことである。アジアの国々のように、高齢者の精神生活を深く思いやり、町の人がよりよい接し方を身につけることは、望ましいことである。

相対する相手が、何を望んでいるかを推察することは、予想以上に難しいことかもしれない。優しい態度で訴えをゆっくり聞いてあげることが、まず大切ではないか。しかも老人を過保護にするのではなく、自分で判断し毅然として自立するようにさせなければならない。あくまでも老いを生ききる平静な心境を尊重したい。

東京保険医新聞2000年9月15日号より