【主張】「東電裁判」無罪判決に抗議する

公開日 2019年11月29日

 2011年3月の東京電力福島第一原発事故において、第一原発から約4・5㎞の場所に位置する双葉病院と、同系列の介護老人保健施設ドーヴィル双葉の入院患者、入所者らは、電気や水道が止まった病院に数日間待機を余儀なくされた。病院長をはじめ医療スタッフたちは、懸命に残された患者の治療・看護にあたっていたが、原発の状況が切迫する中、14日には警察から避難を命じられ、病院に戻ることは許されなかった。長距離、長時間にわたる過酷な搬送などによって、44人が命を落とした。

 このことに関して、東京地裁において、東京電力の勝俣恒久元会長ら旧経営陣3人の刑事責任(業務上過失致死罪)が争われていたが、2019年9月19日、東京地裁は3人に無罪判決を言い渡した。未曾有の被害をもたらした事故に対して、企業の責任を問うことを放棄した異様な判決である。

 国が2002年に出した長期評価に基づけば、最大15・7メートルの津波が原発を襲うことになるとの試算を、東電は2008年時点で得ていたという。だが、現場社員が上層部に対策を迫ったにも関わらず、経営陣は何ら安全対策を行わなかった。

 これについて、東京地裁は、指摘されていた防潮堤設置等の対策をとっても間に合ったか証明されていないとして、「事故を防ぐには原発の運転を止めるしかなく、3人には運転停止義務を課すほどの予見可能性はなかった」と結論づけた。しかし、電源設備の高台移転など、他にも対策は取れたはずだ。判決は、「長期評価を取り入れた対策を行う必要があったのではないか」という本来の論点を、運転停止義務の有無にすり替えており、公正さを欠いている。

 さらに判決文には「当時の社会通念の反映であるはずの法令上の規制等の在り方は、絶対的安全性の確保までを前提としてはいなかった」とある。だが、ひとたび原子力事故が起きれば、広範囲にわたり重大な被害がもたらされることは歴史が証明している事実だ。経営陣には最悪の事態を想定して、安全性の確保に努める責任があったはずだ。他ならぬ国や電力会社こそが、長年にわたり原子力発電の「安全神話」を喧伝してきたのである。

 今回の判決は、「過去に起こったこと」の問題ではない。東京地裁の論理を認めるなら、企業や国に対して責任を求めること自体が不可能になるからだ。今後も、原子力分野のみならず、様々な領域で同様の事故が繰り返され、その度に誰も責任を取らない。そのような体制を温存してよいのだろうか。

 検察官役の指定弁護士は9月30日、東京高裁に控訴した。控訴審において、司法としての公正な判断が示されること、そして国や東京電力が、一刻も早い原発事故の収束と、被災者、避難者への支援、そして原子力発電事業からの撤退に取り組むことを望む。

(『東京保険医新聞』2019年11月25日号掲載)