【特別寄稿】憲政の邪道 暴走する安倍政権――集団的自衛権と立憲主義

公開日 2015年07月25日

東京保険医協会顧問弁護士/砂川事件弁護団 新井 章

東京保険医協会顧問弁護士/砂川事件弁護団
新井 章

一.集団的自衛権問題と砂川事件最高裁判決
――砂川事件判決は集団的自衛権行使容認の法的根拠となり得るか

1.

安倍政権による集団的自衛権行使容認政策と安保法制改正(「戦争法案」)の企ては、多くの憲法学者らから「違憲」の指摘を受けていよいよその法的正当性が疑われ、国民からの疑問や批判も強まっている。

安倍首相や高村自民党副総裁らは、この苦境から脱するための窮余の一策として、こともあろうに半世紀前の砂川事件最高裁判決(1959年12月16日)を引き合いに出し、その判示に手前勝手な解釈を加えた上で、この判決はわが国が(集団的)自衛権を保有していることを認めているなどとして、あたかもこの判決が彼らのいう集団的自衛権行使容認の主張に「合憲」の“お墨付き”を与えているかのごとく強弁している。

しかし、このような安倍首相らの主張の真偽を検証するには、①最高裁判決をこの裁判事件の第1審からの流れのなかに位置づけて、当時の最高裁がこの裁判事件に関して担わされていた任務や課題は何であったかを的確に把握することが必要であるし、それに加えて何よりも、②最高裁判決の内容そのものがどのような論旨を展開し、判示していたかが、予断をまじえずに客観的・正確に把握されなければならない。

2.

(1) そこで、まず①の点(裁判の経過)から検討すると、そもそもこの最高裁判決は、検察側の跳躍上告(控訴審を省略 刑事訴訟規則254条1項)により、日米安保条約とそれに基づく米軍駐留を違憲と断じた東京地裁の第1審判決(いわゆる伊達判決1959年3月30日)を、直ちに速やかに再審査すべき任務の下で行われた裁判であった。

それゆえに、上告審の審理判断の課題も、第1審判決が採り上げた上記の問題(争点)、すなわち日米安保条約と米軍駐留の憲法(9条)適否についての審判に絞られることになったのは、当然至極の成り行きであり、最高裁での審判の過程に、わが国の集団的自衛権やその行使容認の是非をめぐる問題(争点)のごときが“登場”する余地がなかったことは多言を要しないところである。

(2) 次に②の点(最高裁判決の内容)についてみると、この判決の判示は前段と後段との二部構成となっていて、前段は、日本政府が安保条約を締結して米軍の全土駐留を許したことが、政府に「戦力の保持」を禁じた憲法9条2項に違反するかどうかという問題(争点)についての判示である。この判決では、駐留米軍は日本(政府)が保持を禁止された「戦力」には該らぬと判断され、米軍駐留は「合憲」とされている。

後段は、日米安保条約が「戦争放棄・戦力不保持」を定める憲法9条等の非武装平和主義の趣旨に適合するか否かという問題(争点)についての判示である。この点に関する最高裁の判断は、日米安保条約の締結という事柄は高度の政治問題なので、司法判断を任務とする裁判所の審判にはなじまぬとする(「統治行為」論)、司法判断回避の結論となった。

以上のような二段にわたる判決の内容(論旨)からしても、この最高裁判決が日米安保条約と駐留米軍の憲法9条等への適合性という問題(争点)に集中して、それ以外に、わが国固有の(集団的)自衛権のあり方やその行使容認問題についてまで触れる筋合いのものでなかったことは明白であり、ましていわんや、安倍政権の主張する「集団的自衛権の行使容認論」に法的根拠=“お墨付き”を与えるような内容でなかったことは、一点の疑いもない。

(3) かくして最高裁判決がわが国の集団的自衛権問題に判断を加えたものでないことはもはや明らかである。それでもなお安倍首相や高村氏は、判決の前半の部分で裁判所が、「わが国が、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない」と説示している箇所をとり上げ、ここで裁判所が「自衛のための措置」と述べるのは、個別的自衛も集団的自衛も区別しない包括的な表現と読めるし、少なくとも集団的自衛(権)を排除する趣旨とは解されないから、この判決はわが国の集団的自衛権(行使)を否定していない(認めている)などと強弁している。

しかし、この判決の前半が、わが国の有する個別的自衛権(の行使)に関して判示したものであることは、その論脈からしても、文辞(「自国の平和と安全」「わが国の防衛力の不足」「わが憲法の平和主義は決して無防備・無抵抗を定めたものではない」等)に徴しても疑問の余地はなく、彼らの立言は、断章取義でなければ牽強付会の極みという以外にはないのである。

3.

私は1956年に弁護士登録して砂川裁判の当時は開業3年目の若輩であったが、縁あってこの裁判事件の上告審から弁護団に加わることとなり、最高裁大法廷での口頭弁論から判決言渡まで、上告審の裁判の全過程に関与することができた。従って、この裁判の経過や内容に関しては“証人適格”をもつ者の一人と自負してもいる。

二.集団的自衛権行使容認の閣議決定(2014年7月1日)と立憲主義

立憲主義(constitutionalism)とは、国家権力の行使が憲法の定めに則って行われるべきことを求める主張(思想、原理)であって、近代憲法上の大原則の一とされている。

歴史的には、ヨーロッパ中世以降の王権等による絶対主義体制を克服・打倒する闘いの過程で登場したとされるが、わが国現憲法においてもこの思想は貫徹され、違憲立法審査制の導入(81条)や憲法の最高法規性の確認(98条)等の定めに具体化されている。

ところで、安倍政権ははじめから承知の上で、憲法9条や前文の定める平和主義(戦争放棄・戦力不保持)の原則を軽んじ、9条等の下では集団的自衛権の行使は許されぬとしてきたこれまでの歴代政府による憲法解釈を、「閣議決定」をもって敢えて「変更」し、「集団的自衛権の行使容認」→米軍等との共同戦闘行動に踏み切ろうとしているのである。

もし安倍政権がそのような軍事的な新方針を採択し断行しようとするのであれば、その内容が憲法9条等の平和原則にも抵触しかねない重大性を帯びているという事柄の性質上、堂々と「憲法の改正」の手続(憲法第9章)を践んで行われるべきがスジである。憲法の改正手続が実現困難だからといって、その手順を回避し、一内閣の「閣議決定」という行政決定の手法をもって「憲法解釈の変更」(憲法条項の実質的改正)を成し遂げようとするのは、立憲主義体制への挑戦という以外の何ものでもなく、憲政の邪道を行くものとの非難を免れないであろう。

三.安倍政権は集団的自衛権行使・「戦争法案」の強行で何を狙っているか

この点について安倍首相自身が語るところによれば、彼にとっては1945年の第2次大戦での敗北は不本意で不名誉極まる出来事であり、それに引き続く戦勝連合国の対日占領政策によってわが国の国家主権は制限され、米占領軍の押しつけ憲法の下で、日本の伝統的な政治・経済・文化は解体・改変され、占領終結後も米国軍隊の駐留継続により、独立国家としては不甲斐ない従属的な状態に甘んじ続けさせられてきた―このような屈辱的な「戦後レジーム」からの「脱却」をこそ図るべきだというのが、彼の政治家としての信条、宿願であると思われる。

そして、さような彼の願望を遂げる方策として、①対外的には、日米軍事同盟における両国の立場の対等化を図り(集団的自衛権の行使容認や「国防軍」の創設、海外派兵の恒常化等)、日本を再び軍事大国に仕立て上げること、また、②国内的には、戦後70年で築かれてきた平和・民主・人権のわが国政治体制を解体・再編し、国家主義・権力主義的な旧体制(アンシァン・レジーム)を“復活”させること(その青写真が自民党の「改憲案」である)を企図し、狙っているものと察せられる。

戦前日本の帝国主義・軍国主義的な対外膨張政策(韓国併合や中国大陸侵攻等)がひき起こした、無謀な戦争とその惨禍に対する冷静で真摯な反省を欠いた、このような安倍首相の「歴史認識」こそが、国内的には昨今の「戦争法案」強行の基点をなしていると同時に、国際的には中国・韓国等からの深甚な反撥を招き、欧米諸国からも「右翼・ナショナリズム」との根深い不信を表明される現況を生み出しているわけである。

このような安倍政権の危険で憲法違反が明白な“暴挙”を葬り去るために、私たちは最後まであきらめることなく、全力で闘い抜かねばと決意している次第である。

(『東京保険医新聞』2015年7月25日号掲載)