関口 守衛 教授を悼む

公開日 2016年12月28日

関口 守衛 教授を悼む

黄田 照光(元会員)

 小柄で、広い知的な額、少なくとも勇往邁進とは言えないような歩き方をなさる先生は、いつも含羞のある微笑を湛えている。声も小さいが滅多に機嫌を損ずることもない。

 1977年5月、協会循環器研究会が立ち上がったばかりの頃、東京女子医大心研内科の病理研究室で、顕微鏡を覗いている関口助教授に、初めてお目にかかった時の光景は、今でも鮮明に憶えている。以来、かれこれ40年間、研究会としても、また私的にもお世話になった。

 先生の循環器病学は広範にわたるが、とくに専門とされていたのは心筋の病理で、心カテを使用しての心内膜下心筋生検による心筋症の研究は尖端的な仕事で、国際的にもISFC(※註)での心筋症分科会のチェアマンを勤めておられ、心筋症の分類、命名についても独自のものをもっておられた。

 先生は心研で教授になられたあと、1988年には信州大学第一内科教授に栄転されるが、同大学を定年退職されたあと、2008年からは赤坂関口クリニックを開業される。しかし、野にあっても消防庁と協力して、今では当たり前になっているAEDの非医師への普及にも指導的役割を果たされた。もちろん研究会へのご指導は続けられ、2014年には400回の記念講演会が開催される。研究会がこのように続いてきたのも、ひとえに先生の存在があったればこそ、という思いがする。

 一九九九年『ベッドサイドの心臓病学』の著者、ニューヨーク州立大学のコンスタント教授が来日され、「診断と治療社」の「実地医家の心臓病学」というテーマで座談会が行われたことがあった。司会をされる関口先生から突然電話があって、私にも出席するように言われた。会は英語であったが、私のタドタドしい英語を聞くと、先生は「私が英訳するから、君は日本語で喋れ」と言われて、流暢な英語に訳してくださった。先生の自在な英語を耳にすることは初めてであった。

 信大の教授になられてからのある日、突然私のクリニックに電話があって、「君の聴きたがっていた小澤征爾の『サイトウ記念オーケストラ』の入場券が取れたので、明日は休診にして松本に来たら?」と言われたので、松本に伺ったところ、先生は大きな四駆を運転して、駅まで迎えにきてくださった。
 音楽を聴いたあとには信州料理(イナゴ、蜂の子)などをご馳走になり、手配してくださった旅館で遅くまで痛飲した。翌日、遅く起き出した私は、昨日のお礼を申し上げようと信大に伺ったら、先生はすでに外来を診ておられた。

 私が最後に先生にお目にかかったのは、2014年の6月、循環器研究会の第400回記念の日であったが、先生は本年の10月10日、83歳で亡くなられた。
 高々とした「東京カテドラル関口教会大聖堂」の尖塔に聖歌隊の賛美歌が響き渡るなかを、関口先生はヨゼフ関口守衛として帰天された。敬虔なキリスト教者であったということを、この時までは全く存じ上げてはいなかったが、私には今まで感じていた先生の所作のあれこれが、納得できたような気がした。

註)ISFC…International Society and Federation of Cardiology

(『東京保険医新聞』2016年12月25日号掲載)