【寄稿】共謀罪と民主主義

公開日 2017年01月25日

政策調査部長  須田 昭夫

 「テロ等組織犯罪準備罪(テロ準)法案」が1月からの通常国会に提出されるという。「テロ準」はもともと「共謀罪」と呼ばれ、国会では3回、廃案になっているが、イメージチェンジのために名称を変えられた。菅義偉官房長官は「共謀罪とは別もの、一般の人が対象になることはない」と強弁しているが、政府への批判を取り締まる点において、現代版「治安維持法」である。
 1925年5月、治安維持法の施行にあたって警察庁は、「法律を適用するつもりはあまりないので、重大に考えなくてよい」と語り、警視庁も「時代にあわせて、社会運動を尊重する」という趣旨の発言をおこなった。法務大臣も「濫用しないように」と注意した。

 しかし「犯罪の懼れ」を取り締まった法律は、拡大解釈や恣意的運用によって、莫大な被害をもたらした。1928~45年の17年間に、数十万人を超える人々が逮捕され、およそ75,000人が送検された。逮捕と収監にともなって死亡した人は1,682人(数字は東京新聞)と認定されたが、認定されない領域の詳細は不明である。

 昨年、戦争法に抗議して、国会周辺であげられた「声」に対して、現職閣僚が「本質的にテロとかわらない」と発言したことは、見逃せない。沖縄では、県民の抗議を無視する新基地建設が、政府によって進められており、抗議する人たちは機動隊に「ボケ」「土人」と罵られ、腕ずくで排除されている。抗議行動のリーダーたちが逮捕され、長期勾留が繰り返されている。「テロ準」が成立すれば、深刻な事態になることは明らかだ。基地はいらない、原発停止、などの意見が、国家反逆罪に問われかねない。

 民主主義とは何だろうか。多様な意見の存在を許し、国家の資源として活かすとき、誰も犠牲にしない社会がつくられるだろう。我々はナチスから多くのことを学んだはずだ。われわれ自身のなかに住むヒトラーやナチスを、目覚めさせてはならないのだ。権力を握った者が少数派を抹殺するとき、それは権力によるテロであり、虐殺である。

 いまドイツは、膨大な難民を受け入れるという困難を引き受け、感謝され、称賛され、苦しんでいる。誤った戦争から学んだドイツを見習うべきだ。先の戦争のあと、日本は不戦の誓いをたてて、誇りとしてきた。しかしいまや、「富国強兵」、「滅私奉公」、「言論弾圧」の時代に戻る雰囲気がある。もしも日本が核兵器を否定せず、戦う国になれば、日本は戦争から何も学ばなかったことになる。

 国連が求める共謀罪はもともとマネーロンダリングなど、国際的な経済事犯の防止が目的である。テロやオリンピックに便乗した悪法は思いとどまってほしい。いまの日本にはむしろ、基本的な人権を擁護する行政が必要だ。

 日本は選挙制度の不備により、国会の議席数と世論調査の結果が、大きくかい離している。だからこそ政府は国民によく説明して、国民が望む道を選ぶべきだ。民主主義とは、政治におけるインフォームドコンセントの採用であり、基本的人権の擁護だろう。強行採決は考えないでほしい。

(『東京保険医新聞』2017年1月25日号掲載)