【視点】自民党9条改憲案を読む

公開日 2018年05月15日

18050515_02_小沢隆一氏(東京慈恵会医科大学教授)

小沢 隆一 東京慈恵会医科大学教授(憲法学)

この文を見て「どうして医大の教授が…」と不思議に思われる方も多いだろうが、私の専門は憲法学であり、大学では教養科目として法学を教えている。先ごろ公表された自民党の9条改憲案について、専門の立場からコメントしたい。

絞り切れていない9条改憲案

3月25日開催の自民党大会では、9条改憲の党としての案が「前評判」どおりに示されることなく、9条改憲を含む「4項目」(他は、緊急事態条項、(参議院の)合区解消・地方公共団体、教育充実)の方向性が示されるにとどまった。翌日の朝日新聞朝刊1面は、「改憲発議、年内困難に」と報じたが、これは「早とちり」だと思う。「大切なものは大事にとっておく」という人間社会の行動原理を読み間違ってはならない。「自民党の9条改憲案はまだ絞り切れていない」ということだけを確認すべきである。

死文化する憲法9条2項

現在、自民党の憲法改正推進本部の細田博之本部長の手元に3つの9条改憲案が託されているが、どの案を採用しても、「戦力は保持しない」と定めた憲法9条2項が死文化する可能性が高い。憲法の条文としては、2項はそのまま維持されるのだが。

「2項は残るが死文化する」とはどういうことか。医学とともに、いな見方によっては(呪術的なものは医学とは呼ばないとすれば)それ以上に古い、ローマ時代にまでさかのぼれる法学の「格言」として、「後法は前法に優る(を破る)」というものがある。一番新しい遺言が古い遺言に優るというのも同じ理屈である。法と法学は、こうした「方便」(ただし確固不動の処方箋)によって、法と法の間の矛盾を処理してきた。

現在自民党が用意している9条改憲案は、いずれも自衛隊を憲法上に明記するものである。こうして憲法に明記された「自衛隊」は、2項の「戦力」とは違うものであり、「では2項の戦力とは何ぞや」と問えば、「自衛隊ではない、それを超えるもの」という答えが返ってくるように仕組まれている。そのように読める。国の最高法規である憲法に「自衛隊」が明記されれば、しかも後から書き込まれた以上、実態がどれだけ「戦力」相当でも、「戦力ではない」と強弁できる仕組みとなるのが、法の世界の「約束事」なのである。しかし、これは、「感冒とインフルエンザとは違う」と言うのと大して変りがないように思う。

要注意のシビリアン・コントロール(文民統制)

軍隊は武装力、実力組織であり、それが法によって規律されない無制限の力を振るうことになれば、どうなるか。歴史は私たちに数多くの教訓を教えてくれる。カエサルが渡ってしまった「ルビコン川」(河とは呼べないほど小さな川)は、古代ローマの時代に、「ここから先はローマ国内、軍は立ち入るべからず」との境界線であった。国内に武装した軍が入ることは、すなわち「クーデターの企みあり」とされたからである。果たせるかな、カエサルは武力で権力を掌握した。そして、その恨みやねたみにより、結局暗殺された。

憲法に「自衛隊を明記」すれば、その統制、コントロールの規定を置くのは当然のこと。標準装備であって、何も褒められるようなことではない。自民党の9条改憲案は、判で押したように「内閣の首長たる内閣総理大臣(首相)」に自衛隊の「最高の指揮監督権」を与えている。軍の統率(明治憲法では統帥と呼ばれた)が、最終的に民主的に選ばれた政治家の下に置かれるのは、民主主義国家として「当たり前」のことなのである。

ここでいう「内閣の首長たる」という言葉には、要注意である。内閣は、首長たる総理大臣とその他の大臣で組織される(憲法66条1項)のであるから、首長とは総理大臣だけを指す。その総理大臣が自衛隊の指揮監督権を有するということは、閣議を開いて他の大臣の意見を聞かなくても自衛隊を動かせるということでもある。憲法を専門とする私には、この規定は、とてつもなく恐ろしい規定である。有事において首相の独裁が可能となるのである。仮に「そんなこと考えていない」と自民党筋から反論があったとしても、私は、「でもそういうふうに読める。ほかの読み方は難しい」と「診断」するほかない。みなさんも、医療者としての診断を曲げることはなさらないでしょう。

「自衛隊違憲論争」を終わらせる?

安倍首相らは、口を開くたびに、憲法に「自衛隊を明記」して「違憲論争を終わらせる」と言う。憲法の解釈を(一生の)仕事とする憲法学者としては、迷惑千万な話である。確かに1954年の自衛隊の創設以来、憲法学界では違憲論が根強く存在し、政府や与党の合憲論ときびしく対立してきた。自衛隊の陣容や装備、米軍との共同作戦態勢の様子から見て、これを9条2項の「戦力」ではないという方がむしろ難しい。

「実証に基づく医療」(Evidence Based Medicine)を目指して意気高く入学してきた学生たちに面と向かって、「自衛隊は『戦力』にあらず」と堂々と言う自信(無謀さ)は、私にはない。学者が忖度(そんたく)を始めたら、一部の政治家や官僚と一緒になってしまう。その辺の「節度」は守り通したいと思っている。したがって、「自衛隊違憲」論を取り下げるつもりはさらさらない。どこに向かっても「同じことを言う」のが、学者の職分だと思っている。

自民党案のように憲法に「自衛隊を明記」しても、9条2項が残る限り、違憲論争は終わらない。私たち憲法学者は、黙っているわけにはいかない。憲法学者に「筆を折らせる」ことは、第二の天皇機関説事件くらい起こさなければできない相談である。もちろん、そのような「暗黒の時代」は御免こうむる。自衛隊がある限り違憲論争は終わらない。終わりようがない。安倍首相らには、ぜひそうした「現実をしっかり見ろ」と言いたくなる。

憲法9条とアジアの平和を見すえて

学者は、現実とともに未来を語り描くことを使命としているのだと思う。トランプ米大統領と北朝鮮の金正恩氏の首脳会談の動きを見ていて、激動の東アジアの平和と憲法9条の行く末を思わざるを得ない。

北朝鮮に本当に核兵器の廃棄、非核化をさせるには、「見返り」が必要なはずである。それは、国交正常化、朝鮮戦争の終結、平和条約あたりだろう。それくらいでなければ、北朝鮮は乗ってこない。北朝鮮に非核化をさせて、米国は核を持ち続けるのだろうか。そんな虫のよい話はないではないか。米国も核を捨てよ、核戦略を見直せ。そうすれば、中国もロシアも核を捨てるだろう。これは国際政治の現実を見ない夢想家の言になるのか。しかし、核兵器禁止条約は、そうした「核なき世界」を展望し追求している。

私たちが9条を守り続ければ、そうした世界をたぐり寄せることができるのではないか。9条を守ること、アジアの平和を実現して軍事同盟体制を終わらせること、核兵器を廃絶すること、この3つは、実は一体不可分の課題なのだと思う。

(『東京保険医新聞』2018年5月5・15日合併号掲載)