【視点】刑事司法の過剰介入は介護現場に何をもたらすか

公開日 2019年06月06日

―特養あずみの里裁判の場合―

今井 恭平(ジャーナリスト)

 さる3月25日、長野地方裁判所松本支部において、「業務上過失致死」事件裁判の判決が言い渡された。「被告人を罰金20万円に処する」野澤晃一裁判長が主文を読み上げると、傍聴席を埋めた人たちから、失望と憤りの嘆息がいっせいに漏れた。

 特別養護老人ホームで起きた入所者の急変・死亡に対し、准看護師の刑事責任を認めて有罪としたこの判決は、介護・医療にかかわる人なら無関係ではいられない問題を投げかけている。

▪特養ホームでの入所者の急変

 異変が起きたのは、2013年12月12日。長野県安曇野市の特養老人ホーム「あずみの里」で、入所者のKさん(85歳)がおやつのドーナツを食べた直後に意識を失った。居合わせた職員がただちに救護処置を行い、救急車で松本市内の総合病院へ搬送されたが、意識が回復しないまま、約1カ月後に亡くなった。

 警察は、Kさんが亡くなるよりも早く、年明け早々から捜査に入り、施設や職員、入所者に関する資料を押収し、業務に支障を生じるほどだったという。その後12月26日、准看護師のYさんが在宅起訴された。

 Yさんは当日、食堂に集まったKさんを含む17名の入所者におやつを配食した後、Kさんと同じテーブルについて、食事全介助の他の入所者の喫食を介助していた。そのとき食堂にいた職員は、Yさんのほか、介護福祉士のMさんだけだった。

 起訴状によれば、「Kさんは、食物を口に詰め込む特癖があり、誤嚥の恐れがあった。したがってYさんは、Kさんがおやつを食べている間、誤嚥事故などが起きないよう、動静を終始見守る業務上の注意義務があった。それを怠ったため、Kさんはドーナツをのどに詰まらせ、窒息による心肺停止から死に至った」とみなし、業務上過失致死罪(刑法211条)にあたるとした。

▪裁判の争点および訴因変更

 刑事裁判では、被告人には無罪を立証する責任はない。起訴した罪状(訴因)にしたがって、証拠にもとづいて有罪を立証する責任は、あくまで検察官にある。

 検察の立証が、あらゆる合理的な疑問をさしはさむ余地のないものでない限り、有罪としてはならないから、無罪を宣告しなければならない。これが刑事裁判の鉄則である。

 したがって本件で検察は次のすべてを立証しなければならない。

⑴Kさんには誤嚥などの恐れがあることをYさんは予見可能であったこと。

⑵したがって食事中の見守り義務が生じていたこと。

⑶それにもかかわらず、食事の見守りを怠ったこと。

 しかしKさんには嚥下や摂食でのトラブルは入所以来一度もなく、専門家も(検察側証人も含めて)「Kさんには狭義の摂食嚥下障害はない」と証言した。これでは、Yさんが「誤嚥などを予想できた」とは認めがたい。

 また、そもそもKさんの急変が、ドーナツによる窒息死か否かも、争点となった。専門家からは、脳梗塞や心疾患の可能性を指摘する見解もあり、窒息サインがないなど、窒息死に疑問を投げかける指摘もあった。死因が異なれば、そもそもおやつを配っただけのYさんの行為との因果関係は否定され、訴因は根拠を失う。

 ところが驚いたことに、検察は「訴因変更」(刑事訴訟法312条)という手続きをとってきた。

 当日用意されていたおやつは2種類あり、普通食に準じるドーナツと、嚥下などに問題のある人のためのゼリーがあった。検察は、当初の訴因(食事中の見守り義務違反)に加えて、Kさんにはゼリーを配食すべきであったのに、ドーナツを配ったことが、確認義務違反だという新たな主張(予備的訴因)を加えてきた。

 裁判の途中で争いの核心となる訴因を変更するのは禁じ手とも見えるが、実は裁判手続きとしてはさほど珍しいことではない。しかし、この訴因変更が一審の結果を左右した。

 地裁判決は、最初の訴因(見守り義務)を退けながら、予備的訴因(ゼリーでなくドーナツを配ったこと)だけで有罪と認定したからだ。だが、この論理には矛盾がある。何故ならKさんに摂食障害が認められないのであれば、ドーナツではなくゼリーでなければならないという根拠も存在しないからだ。

▪介護現場を委縮させる不当な判決

 介護や医療の現場は、常に死と隣り合わせのリスクをはらみながら、関係者全体がチームとして問題に立ち向かっている。

 現場での死を個人の偶発的不祥事かのように見なす司法判断が行われ、刑事司法が介護や医療現場に過剰介入するようになれば、リスクだけを恐れておやつそのものをやめてしまうというように、入所者のためよりも施設や職員の自己防衛を優先する風潮が生まれても不思議ではない。そんな魂の抜けた福祉や医療が、私たちの望んでいるものなのだろうか。

 「介護施設での事故について職員の刑事責任が問われたのは異例」(信濃毎日新聞3月25日夕刊)「介護現場に人が集まらなくなる」(朝日新聞3月26日)など、判決直後のマスメディアの論調に、判決への批判が目だったのも当然といえる。

 被告・弁護団は、即刻控訴した。介護・医療のこれからのあり方に大きな影響を与える裁判は、東京高等裁判所に舞台を移すことになった。

(『東京保険医新聞』2019年5月25日号掲載)