【視点】原発事故から9年を迎えた福島のいま

公開日 2020年04月02日

原発事故から9年を迎えた福島のいま

                     kimuraaa

獨協医科大学 国際疫学研究室福島分室長 木村 真三 
 

 今回は環境と人の2部構成で福島の「いま」をお伝えいたします。

台風19号による再汚染

 2019年10月12日の台風19号は、全国に甚大な被害をもたらしました。特に福島県では、阿武隈川とその支流を中心に越水や堤防の決壊による被害があり、死者32人、家屋の全壊1463棟、半壊1万2333棟に及んでいます(福島県調べ、2020年1月7日現在)。

 一方、福島県やその周辺地域では、東京電力福島第一原子力発電所から放出された放射性物質による広範囲に及ぶ汚染が確認されています。これらの汚染土壌が大雨により流出し、各地で再汚染が懸念されます。

 私が放射線専門家チーム代表を務める二本松市の市民から土壌の持ち込みがあったことから、本格的に調査をすることとなりました。持ち込まれた土壌は、阿武隈川が蛇行する部分にある瀞(とろ)と呼ばれる淀みの部分に体積していたペースト状の粘土でした。簡易検査の結果、水分を含んだ状態で170?200Bq/㎏の放射能濃度が出ました。

 後日、圃場の水が引いた時点で東京新聞と合同で本格調査を行うこととなり、所有者の方の案内のもと現地で洪水当時の状況説明を受けました。二本松市の調べでは、最大6・6mの水深があったそうです。

 調査はコアサンプリングと呼ばれる土壌を鉛直方向に採取する方法で行われました。洪水により運ばれた粘土層の堆積層、その下に原発事故当時から使用していた層が存在するのですが、農地として耕運機により攪拌されている層が15㎝、さらに放射性物質が浸透した部分、そして原発事故以前の層まで採取し比較評価するために地表面から60㎝を採取しました。あらかじめ、コアサンプリングを行う前に堆積層の厚みを調べたところ15㎝でした。採取した土壌は、5㎝毎に切り取り乾燥させた後、ゲルマニウム半導体検出器によりガンマ線分光法を用いて放射能濃度を導きました。

 その結果、堆積層で最大1538・1Bq/㎏、原発事故後の汚染土壌は最大3701・3Bq/㎏、原発事故前の汚染は最大9・6Bq/㎏でした。意外なことに、河川の氾濫により運ばれてきたものではなく、原発事故後に使用していた農地の汚染が最も高いものであることが確認されました。また、原発事故前の土壌の放射能汚染は8?10Bq/㎏であり、こちらは大気圏内核実験の痕跡だと推測されます。

復興とは何か?

 福島では、オリンピック・パラリンピックを前に復興という言葉ばかりが目に付きます。しかしながら、そこには声に出せない住民たちもいることを知ってください。

 地方の人離れ、企業離れにより経済状況が悪化する中、住民は放射能の実害を訴えられずにいます。未だに放射能禍に苛まれている実態や風評被害が世に知られれば、いじめや差別に繋がってしまう、という不安が心の中を占めています。

 こうした中で、真の復興とはなにか?その答えを持って頑張る市民がいます。二本松市東和地区の有機農法家「菅野正寿(すげの せいじ)」さんです。

 正寿さんは、本当の復興は「浪江の福島水素エネルギー研究フィールド」や「福島ロボットテストフィールド」、無人で耕すトラクターやドローンを用いた農薬散布などの「福島イノベーション・コースト構想」など約2500億円もの税金をつぎ込んだプロジェクトではない、人の営みが見える復興が必要と言います。

 野生動物と人の生活領域の境界を成す里山の放射能汚染を除去し再生を目指すこと、里山文化を取り戻し、農業や林業を通し人々の交流を深めることこそ真の復興と言います。国主導の復興は、住民を無視した国の都合の良い復興政策でしかない。本来、被災者の立場から復興計画を立てるため、県民の対話からなる会議を開催するべきではないか。オリンピックで、福島第一原発事故の幕引きを図ろうとするなか、行政に頼らない復興が福島の未来につながるのではないかというのです。

 反対に現実を目の当たりにして意気消沈している方もいます。2017年3月一部の地域を除き帰村宣言が出た飯舘村で、事故前は牧畜業をしていた長谷川健一さんに話を伺いました。

 健一さんは最近話題となっている韓国の東京オリンピックを風刺したポスターを例に話をします。左肩に放射線マークのワッペンが貼られた防護服の男が聖火を持って走る姿が描かれています。健一さんは、みんな韓国を非難するけど、あれは本当のこと。「実際、風評被害でねぇ、実害だ」と言います。いくら牧草地を除染してもセシウムが牧草に移行する。だから飯舘では乳牛は飼えない、だって売れねぇだもん。しかし、震災前に建てた家もある、代々受け継いで来た土地もあるから帰って来た。何もしなかったら集落全体が荒廃して行くのが忍びない。仕方ないから蕎麦を蒔くことにした。去年は24ヘクタール。今年は30ヘクタールくらいになりそう。昨年は近年稀にみる蕎麦の大豊作の年。どこもかしこも蕎麦が余るくらいだった。ここでも豊作。でも、今も農協の倉庫に山積み、買い手がつかないのな。

 健一さんは蕎麦の花が綺麗に咲けば、それで良いといいます。なんの夢も希望もない、だって描くことができない。これからのことを。これが飯舘村の現実なのです。
 

(『東京保険医新聞』2020年3月15日号掲載)