[視点]京都ALS患者の嘱託殺人事件で思い出したこと

公開日 2020年09月24日

京都ALS患者の嘱託殺人事件で思い出したこと

NPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会 副理事長 川口 有美子

川口有美子様写真

医学的判断と主観境界線はどこに

 京都在住のALS患者、林優里さんが医師による嘱託殺人で亡くなっていた。その事件をきっかけに、安楽死合法化を求める声が一部で高まりをみせている。

 林さんに死をもたらした2人の医師は、報道によると難病患者や高齢者は「生きていてもしかたない」という思想を持っていた。では、この2人の医者が特別だったのか、というと私はそうは思っていない。

 身近なところにも、主治医から「寝たきりになるから呼吸器はやめといた方がいい」と言われた患者がいる。治療方針は医学的判断に基づくということだが、「寝たきりはよくない」というのは価値判断であろう。私は「寝たきり」の人たちの充実した日々を知っているので、一概に寝たきりが悪いとは思えない。

 いったい医学的判断と医師の主観との境界線はどこにあるのか。

 2008年秋、舛添元厚労大臣の「終末期医療のあり方に関する懇談会」に参考人として招かれた。前尊厳死協会理事長、井形昭弘氏も同じく参考人として臨席し、「同僚がALSで呼吸器装着後は寝たきりで論文も書けなかった。尊厳を奪われていた。呼吸器を外してやりたかった」と語った。

 一方、彼の隣にいたALS患者の橋本操氏は、ヘルパーに独自の口の形を読み取らせて、尊厳死法制化に反対する意見を述べた。

 井形氏の記憶に残る哀れな同僚が、もし橋本氏と同じ介護制度を利用できていたとしたら、きっとヘルパーによる一文字一文字の読み取りで、再び論文を書きあげただろう。そして、生きがいを取り戻していたに違いない。さすがの井形氏の「寝たきり」に対する印象も違うものになっていた、かもしれない。

「なぜ死なせることばかり考えるのか」

 ヘルパーが堂々と喀痰吸引ができるようになったのは2011年(法制化)。その研修機関が増えてきたのはここ数年のことだ。故に常時吸引が必要な患者のヘルパー利用は端緒についたばかりであり、多くのALS患者がいまだ利用できていない。だから、長期療養施設のない地域では、今でも家族が介護を請け負うのでなければ呼吸器をつけてもらえない。

 家族だけでの24時間介護は到底無理なので、吸引が必要な当事者団体はヘルパーによる喀痰吸引等の法制化を国に求め続けたが、日本医師会や日本看護協会はずっと反対の構えだったし、その間何度も日本尊厳死協会は尊厳死法制化を国会に持ち込んでいた。

 また、2010年、第51回日本神経学会は公募シンポジウムで、ALSからの人工呼吸器の取り外しを今後の課題として提案した。人工呼吸器の取り外しは、即座に死に至るため、実質的には安楽死である。でも事前指示書さえあれば、本人の意思確認が困難な場合は、家族の同意で取り外せるとも考えられる。ここに倫理的な問題が残っている。

 長年、人工呼吸器の当事者が懇願してきたのは、十分な公的介護保障とヘルパーによる吸引等の法制化により、どの患者にも生き延びるチャンスと尊厳ある生をもたらすことであったが、かくのごとく障害者の呼吸器外しに殊更に熱心な人たちもいた。

 そのような人びとは、なぜ死なせることばかりで介護の問題を一緒に考えてくれないのだろうかと私はずいぶん悲しかったものだ。 また、その頃NY市で診療にあたっていた日本人神経内科医に、直にALS患者の呼吸器の停止の実際について質問する機会があった。2人以上の医者が指を重ねて呼吸器のスイッチを切るという、それは辛い医療だという。でもどんな理由で患者が呼吸器を止めたいと望んだのか、その医師は知らないと言った。これには心底驚いた。

 その患者にとって人工呼吸器は息をするための機械。十分に役に立っていただろうに、そのスイッチを止めるのだから、これは「医学的判断」ではない別の理由で止められた可能性もある。法に抵触さえしなければ、医師は呼吸器を外せるようになってしまう。

 今はまだ日本では、いったん呼吸器を付けてしまえば、自己決定できる患者でも自分の意思では取り外せない。これは患者から治療選択の権利を奪っているようにも見えるが、もう自殺を考えずともいいということでもある。

ACPは患者にとって本当に「福音」なのか

 ところがACP(アドバンス・ケア・プランニング)が出てきてからは、大勢で合意形成しAD(事前指示)を作成していれば、人工呼吸器を外しても倫理的に問題ないという人もいる。これが患者にとっての福音なのかは十分に検討すべきところだ。生活に疲れきった患者には自殺という選択肢が目前にぶら下がり続けるということでもある。これを人工呼吸器利用の患者らがどう評価するかも興味深い。

 未知の恐怖を予言する専門家が、民衆の思考を停止させてしまうことがある。京都のALS嘱託殺人事件はたぶん、そのようにして起きたのだ。林さんのツイッターに優生思想の医者が紛れ込み、彼女やフォロワーの思考から柔軟性を奪い取り、「安楽死」の実行に照準を絞らせた。

 真相が解明され、当初彼女が抱いていたはずの生存への願いの断片にも光が当たることを強く望んでいる。

(『東京保険医新聞』2020年9月15日号掲載)