[視点]日本のジェンダーギャップと女性の貧困

公開日 2021年04月10日

日本のジェンダーギャップと女性の貧困

                     

ソーシャルワーカー/KAKECOMI代表 鴻巣 麻里香
 

 

失業女性に立ちはだかる高い壁―再就職、生保申請

 「ないんですね、仕事。本当にないんだ」

 意気消沈して、彼女はそう言った。フリーランスのソーシャルワーカーとして活動する筆者は、街角で小さな相談事務所を開いている。彼女がそこを訪れたのは求職活動を開始してから数カ月が経過し、受け取った不採用通知が二桁に達した時だった。

 15年勤めた会社が営業不振により大幅な業務縮小を決め、彼女は退職を余儀なくされた。やんわりと伝えられた退職の「相談」は、しかし決定事項だった。さっぱりとした性格の彼女は、自分を切り捨てようとする会社に一抹の未練も抱かず、二つ返事でその「相談」を受け入れた。

 正社員として15年間勤務。事務員ではあったが重要なプロジェクトで事務局責任者を任されることもあった。同じ15年キャリアの同僚のうち、退職を勧告されたのは女性である彼女だけ。性差別かも、と思った。しかし実力は認められていたはずだ。再就職は難しくない、そう思っていた。

「びっくりした。給与が低すぎる。どこも手取りで15万円以下、これじゃ子どもたちを育ててはいけない。そしてどんなに条件を下げても、そもそも採用されない」

 学歴不問、性別不問、年齢不問。ハローワークの求人票にそう書いた企業たちは、しかし40代目前の高卒女性を求めてはいなかった。面接で提示される賃金は求人票記載額を下回り、むしろ彼女の長すぎるキャリアを疎んじ持て余すようですらあった。「うちではもったいないご経歴ですので」「ご経歴に見合う待遇をご用意できるかどうか」それが面接を切り上げる常套句だった。

 仕事がなくなった。受験生を含む子どもたちとの生活は預貯金が安定するほど余裕のあるものではなく、長引いた求職活動期間中に手持ちの現金は目減りしていった。シングルマザーだが、養育費は受け取っていない。暴力から逃れるには養育費を諦めるしかないと、離婚当時の彼女はそう思っていた。

 共に役所を訪れた筆者らは、生活保護申請の窓口で扶養照会のハードルに直面した。暴力と暴言を浴びせ続けた元夫、そして束縛と虐待を繰り返してきた親に、現在困窮しているという彼女の「弱み」を伝え、「扶養できません」という回答を得る。誰にとっても無意味なその手続きは、繰り返し事情を説明することで免れることができた。しかし当然の権利として受ける支援と引き換えに、心的外傷体験を語る痛み、そして「私は自立したひとりとしてみなされていない」失望という代償を支払うことになった。

女性を自立した存在とみなさない日本の家制度

 なぜ、女性の賃金はこうも低く設定されているのか。なぜ、女性はキャリアを積んでも正当に評価されないのか。その原因は「稼いで世帯を維持する役割は男性のものである」という強固な前提にある。

 一部の専門職を除いて(そして専門職であっても)、キャリアを積み誰かの庇護を必要とせず生きていける力をつけた女性は、この社会においてイレギュラーな存在だ。イレギュラーな存在ゆえに、キャリアに見合うだけの対価は用意されていない。特に貧困や虐待の中で育ち、学歴を身につける機会を奪われ、逆境的環境から自力で抜け出し叩き上げで実績を積み上げてきた彼女のような存在は、むしろ持て余されてしまうのだ。

 労働と実績に対し正当な対価が支払われなければ、小さな躓きで困窮することになる。困窮すれば様々な福祉制度の必要性が高まる。しかし日本の福祉は、特に女性にとって非常に使い勝手が悪い。ここにも女性は男性に扶養されるもの、という前提があるからだ。

 筆者の運営する非営利団体では、困窮や家庭内暴力に苦しむ女性・親子のためのシェアハウス(シェルター)を所持している。

 児童手当や各種給付金などの受け取りが世帯主に限定されるため使い込まれてしまう、配偶者から扶養の範囲内で働くことを求められ個人資産を持つことが難しい、扶養照会を恐れ生活保護申請を諦めてしまう、など入居者が困窮する理由はさまざまだが、女性が男性に従属する存在として扱われていることに起因する点において一致している。

 女性の賃金が低く見積もられていることも、福祉制度設計上のエラーも、根本の原因は同じ、女性が「ひとり」として社会的に認められていないことにある。女性は世帯主(ほぼ自動的に男性が設定される)に保護され養われる存在であり、個人として自立することも、そして個人として困窮することも想定されていない。「ひとり」としての自立も救済も阻まれれば、配偶者に依存した生き方を選択せざるを得なくなる。そして「女性は男性に従属し保護を受ける存在である」という社会的な枠組みは強化されてしまう。その結果、女性や子どもの生きづらさは「家」の囲いの中で不可視化され、無きものとされる。

誰もが安心して「転べる」連帯の社会へ

 女性を従属的な地位に置くことで、近代日本の社会は回り経済的な発展を遂げてきた。しかしその社会構造が既に末期を迎え、発展が頭打ちであることは誰の目から見ても明らかだ。

 そして突如として「女性の活躍」が叫ばれるようになった。しかしながら、キャリアの蓄積が阻まれ、福祉のセーフティネットが女性に対し機能不全に陥っている現状を温存したままうたわれる活躍とは、そして自立とは、富あるいは福祉予算というパイの取り分を女性から奪うことが目的に他ならない。

 男性の扶養によって維持されることが前提のイエ(家)制度は女性を抑圧する枷だが、その枷を外した途端に困窮する女性たちもいる。世帯単位の諸制度によってそう仕組まれてきた。あらゆる女性の自立は目指すべきゴールではあるが、自立がパワー(学歴、出自、資格等の優位性)を持つ人々の特権となり、イエの庇護を受けざるをえなかった女性たちが置き去りにされるようなことはあってはならない。

 今求められているのは「私たちは誰でも転びうる」ことへの想像と、「この社会は私たちが安心して転べるものか」という問いかけによる連帯である。

※登場する本人の許可を得て、個人情報に抵触する部分は変更して記載しています。

(『東京保険医新聞』2021年3月25日号掲載)