[視点]震災復興における当事者排除を考える―宮城県の防潮堤建設から

公開日 2025年03月27日

震災復興における当事者排除を考える—宮城県の防潮堤建設から

                     

(一社)プロジェクトリアス代表理事/気仙沼市議会議員 三浦  友幸

 

 宮城県気仙沼市大谷地区。1㎞にわたる大谷海岸という砂浜を有し、震災前は多くの海水浴客が訪れる地域の内外から愛される場所となっていた。しかし、2011年の東日本大震災により、津波と地盤沈下によってそのほとんどが失われてしまった(図1)。

 2012年7月、わずかに残った砂浜の上に高さ9・8mの防潮堤計画が示された(図2)。そして、震災から14年、東北の沿岸部は、巨大な防潮堤によって囲まれている。

 
 図1 大谷海岸周辺エリア

 
 図2 震災後の大谷海岸と当初の防潮堤計画

防潮堤建設の強行と地域コミュニティの分断

 震災後、国は津波の大きさを2つに分けた。発生頻度の低い最大クラスの津波をレベル2、発生頻度の高い数十年から百数十年に一度の津波をレベル1とし、被災した東北の沿岸部400㎞に、レベル1の津波に対応した防潮堤を整備する方針が示された。

 津波シミュレーションにより各エリアの防潮堤の高さが設定された。しかし、三陸の沿岸部では津波の集まりやすいリアス式の地形から、レベル1の防潮堤でも、その高さが10m前後と巨大なものになってしまった。

 2012年に防潮堤の説明会が行われ始めると、各浜において、防災や景観、環境をめぐり賛成反対の対立が起こり始めた。宮城県は高さを変えず防潮堤の建設を堅持する姿勢を示し、また、当初は復興予算の期限が3年であったことから、住民の合意形成は置き去りにされ、強硬な政策の進め方に、住民も現場の行政職員も消耗し、そして地域コミュニティは各地で分断されていった。

気仙沼市 市民有志の「勉強する会」の取り組み

 しかし、各地の対立が激化する中で、気仙沼市では、市民有志が立ち上がり、市全域を対象に中立的な立場で多様な角度から防潮堤について勉強することを目的とする「防潮堤を勉強する会」が立ち上がった。私も発起人の1人である。

 勉強する会は2カ月半で13回の勉強会を開催し、延べ2500人以上の市民が参加した。毎回様々な分野の専門家を講師に呼び、中立性を担保しながら、市民リテラシーの向上を目指した。そして、勉強会から見えてきた課題をまとめ、住民合意の尊重や地域の多様性の確保等を求める要望書を作成し、宮城県知事や各行政機関へ提出した。

 勉強する会の活動は一定の成果を上げた。第一の目的とする市民リテラシーの向上は、副次的に行政職員のスキルや知識の向上にもつながった。そして、反対運動でも推進運動でもない、中立的な活動は注目を浴び、多くの報道機関によって、防潮堤の問題が社会問題と認知されることにつながった。それによって市民の立場が行政と同等の立場まで押し上がり、事業自体がなくなることはほとんどなかったものの、少なくとも気仙沼においては、住民合意を得ていない浜では防潮堤事業が進めない状況を作り出した。そして、勉強会で学んだ市民が各地でコーディネーターとして、課題解決や地域の合意形成に取り組んだ。

大谷海岸の砂浜を守るための計画変更

 私が住民として直接関わった大谷海岸では、防潮堤を造る代わりに背後の国道を嵩上げし、砂浜を守り海の見える計画変更に成功した。住民間の対立を回避するため、反対運動ではなく市民意見の反映を求める、言わば住民参加の署名活動を行った。地域の自治会組織が中心となり作成した震災復興計画では、まちづくりの上位概念として大谷海岸砂浜を守ることを盛り込んだ。

 続いて、地域の若い世代が中心となって大谷地区のまちづくり協議会を結成し、若い世代が地域の意思決定に参画した。花火祭りや砂の造形大会などを実施し、コミュニティの醸成を図りながらワークショップや地域アンケートを通じ、地域の思いを一つのビジョンにまとめた(図3)。対立の起きやすい防潮堤の議論において、地域内に感情的な対立をおこさないことに重きを置き、大谷地区3700人の合意形成に成功した。

 そこから各行政機関と意見交換を開始し、細心の注意を払いながら、失敗の許されない合意形成を積み上げ、各行政機関と交渉を行い続ける日々が続いた。そしてついに、2017年7月、私たちは地域の象徴である大谷海岸の砂浜を守る計画変更に成功した。2012年の最初の説明会から最終的な行政計画の完成まで5年、さらに工事完成までの4年間、最後まで詳細を詰める話し合いが続いた。

 大谷地区では、結果的に海の見える環境と砂浜を守ることに成功した(図4)。砂浜の上に防潮堤を造る代わりに国道を嵩上げする計画変更である。しかし、防潮堤事業は海岸の事業であり、国道は道路事業である。国の財布が最初から異なる事業、まして嵩上げできる復興事業は一部の特殊な事業に限られており、国道嵩上げの可能性はゼロだといわれ続けてきた。しかし、地域はあきらめず、一枚岩となって砂浜を守ることを訴えた。その想いに、やがて現場の各行政の方々が応えてくれた。試行錯誤の末、最終的には海岸の管轄変更なども視野に入れた国道嵩上げの論理を作り出し、結果的に国を動かすことにつながった。

 
 図3 大谷地区住民のビジョン(2015年8月作成)

 
 図4 新たな大谷海岸(2021年7月)

復興を当事者のものにするために

 防潮堤を勉強する会や大谷地区の活動は、復興を自分たちの手に取り戻すための戦いであった。他にも被災地の様々な人々の取り組みや声によって、2014年3月には、当時の安倍総理が、防潮堤について、景観の重要性や見直しを示唆する言葉を口にした。その後、復興予算の期限が都度延期される中で、多様な事例が少しずつ生まれていった。しかし、防潮堤を造る前提までは大きく変えることができなかった。大谷地区のように、針の穴を通した事例がいくつかある一方で、多くの場所でコミュニティの分断が生まれ、十分な議論が積み上げられないまま計画が進んだ浜もある。

 地域性と合わない復興政策が下りてきた場合、地域はその「復興」と全力で戦わなくてはならない。復興とは何か。復興完遂という言葉をよく耳にする。大谷海岸の砂浜は地域の象徴であり、アイデンティである。もしこれが復興の過程で失われてしまった場合、事業が完了しても、私たちはそれを復興と呼ぶことはできなかっただろう。

 「勉強する会」発起人メンバーのほとんどは、まちを民間で動かしてきた社長たちである。自宅も会社も被災するなか、防潮堤問題にここまで尽力してくれた。大谷地区では最終的に200回以上の会議を要し、失敗の許されない合意形成と交渉を約10年も繰り返してきた。さらに多くの人々が社会に対して課題を訴え続けた。被災を受けたのだから当事者として頑張らなければならないのはわかる。しかし、ここまでしなければ復興とはできないものだろうか。「奇跡を起こさなければできない復興」では、また同じことが繰り返されてしまう。次の被災地では、私たちと同じ思いや苦労をさせたくはない。それがこの問題に取り組んだ多くの人々の願いだと思う。

 最後に、それでも私たちの地域がここまで活動してこられたのは、多くの方のご支援と想いに支えられたからである。東北の被災地に想いを寄せていただいた全ての方に厚く御礼を申し上げたい。そして、能登や各地で多発する災害の被災地の復興が、当事者のもとにあることを心から願う。

(『東京保険医新聞』2025年3月15日号掲載)