[視点]乳腺外科医事件の差戻控訴審の判決を受けて「疑わしきは検察官の利益に」という非常識

公開日 2025年05月13日

乳腺外科医事件の差戻控訴審の判決を受けて
「疑わしきは検察官の利益に」という非常識

乳腺外科医裁判弁護団/駒込たつき法律事務所 弁護士 水谷  渉                                                                                                                                   

1 2度目の無罪判決

 2025年3月12日、東京高等裁判所の法廷で、乳腺外科医に2度目の無罪判決(控訴棄却)が言い渡された(確定)。

 この事件は、さかのぼること9年前の2016年5月、足立区の柳原病院で、右乳房の葉状腫瘍の摘出手術を受けた30代の女性患者が、全身麻酔終了から約30分の時点で、手術後の経過の確認のため訪室した外科医に「乳頭を舐められた」「外科医が乳房をみながら右手をズボンに入れ自慰行為をしていた」と訴えたことから始まった。

 現場の医療スタッフは、せん妄による幻覚であるとして対応していたが、女性患者が知人に電話をして被害を訴え、その知人が警察に通報した。

 約2時間半後、警官が病院に駆けつけ、女性患者が舐められたと訴えた乳頭をピンセットを用いて濡れたガーゼでふき取った。

 同年6月、練馬区の科捜研で、このガーゼの半量から80・6ngと推計される男性医師のDNAとアミラーゼが検出されたことが報告された。

 外科医は、2016年8月に逮捕され、9月に準強制わいせつ罪で東京地方裁判所に起訴された。外科医の身柄拘束は、同年12月まで続いた。

 東京地裁は、2019年2月、術後せん妄による幻覚可能性を指摘した。DNAについては唾液の飛沫や乳頭の触診で付着しうること、アミラーゼ検査の鋭敏度が高いことを指摘し、無罪判決を言い渡した。

 ゆるぎない常識的な判決であった。検察官の控訴があったものの、控訴審は形式的な審理で終わることも多い。

 

2 東京高裁の実刑判決

 控訴審では、女性患者がせん妄による幻覚であったかどうかを判断するために、弁護人と検察官のそれぞれに、精神科の専門家の尋問をさせた。

 弁護人が請求した証人は、せん妄に関する研究・著作が多数あり、せん妄に関する臨床経験も豊富であった。女性患者が、せん妄による幻覚である可能性が高いことを証言した。

 これに対し、検察官が請求した証人は司法精神医学の専門家であり、「自分はせん妄の専門家でない」と明言したうえで、独自の見解に基づいて、女性患者の証言がせん妄であった可能性は低いと証言をした。

 自ら専門家ではないと公言する証人の信用性は低いものと考えられた。第一審の無罪判決は覆らないだろうと考えられた。

 しかし、予想に反して、東京高裁は懲役2年の判決を言い渡した。

 その理由は、①女性患者の証言は迫真性に富んでいて信用できる、②せん妄による幻覚の可能性は否定できる、③科捜研のDNA量の鑑定は信用できる、というものであった。

 常識的に考えて、術後間もない患者の言動がせん妄による幻覚によるものでない、と断言することはできないはずである。「可能性がない」ことの証明は一般に極めて困難で、「悪魔の証明」と呼ばれ、どこまでいっても、せん妄による幻覚である可能性は否定できないはずだ。

 ところが、東京高裁は、「悪魔の証明」を認めた。「疑わしきは検察官の利益に」という常識外れの感覚を持っていたといわざるを得ない。

3 最高裁の有罪破棄判決

 最高裁では、「疑わしきは検察官の利益に」という常識外れの感覚と対峙しなければならなかった。多数の精神科の専門家の証言や文献を裁判所に届け、あらゆ角度から検察官側の専門家の証言が間違っていることを伝えた。

 最高裁は、東京高裁の有罪判決を破棄したものの、自ら無罪判決を言い渡さずに、高裁に審理を差し戻した。最高裁が無罪判決を書かなかったのは、最高裁もまた「疑わしきは検察官の利益に」という感覚から脱却できていなかったのだと思う。

4 無罪判決後の外科医のコメント

 2025年3月12日の無罪判決後の外科医のコメントの一部を以下に紹介する。

「この裁判の結果については当然であり、何の疑いもないと考えています。警察と検察は、片方の言い分を過剰に信じ、客観的な物の見方ができない、そして一度決めたら振り返りや修正することのない組織だと思いました。まるで戦前の軍隊のようです。

 これらに私の生活や仕事そして家族を奪われたこと、警察と検察に対して強く憤りを感じます。警察による尾行・不法侵入によるゴミあさり、恫喝。長期間にわたる身柄拘束による日常からの断絶。こうした人権侵害について問題としない裁判所の態度も大きな問題だと感じます」。

5 所感

 私は、今回の裁判で弁護人を担当した。裁判では、DNAが乳頭に付着した機序やDNA定量の精度などの技術的な議論に時間を費やした。

 しかし、真に裁判所に望んだことは、「疑わしきは検察官の利益に」という非常識な感覚を捨て、常識的な判断をしてほしい、ということであった。女性患者が「せん妄による幻覚だった可能性がない」といい切れるかどうかは、常識レベルで判断できることであろう。この間、多くの医療者からせん妄の疑いがあるのにどうして無罪にならないの、と不思議そうに聞かれた。

 この常識的な判断に至るまで、約9年の歳月を費やした。刑事司法関係者(私自身を含む)は、外科医のコメントを真摯に受け止め、刑事捜査や審理の在り方を猛省しなければならない。

 

(『東京保険医新聞』2025年4月25日号掲載)