公開日 2016年05月25日
支那事変では日本は100万の大軍を中国に送り込み、太平洋戦争の終りには約800万の日本の軍人がいたと言われていて、それに見合う軍医は約3万人いたのではないかと考えられている。
軍医になるには凡そ3つの方法があったようだ。医学生のときに軍医の教育を受けておくと、大学卒は軍医中尉に、医専卒は軍医少尉に任官された。
2番目は昭和12年軍医予備員制度ができ、志願しておくと補充兵役の教育召集が来て衛生上等兵の階級が与えられ、15日間歩兵としての基礎訓練を受け、その後衛生伍長となり75日目に衛生軍曹になった。その間待遇は兵隊として薄給でみじめなものであったという。
3番目は軍医になるのが嫌で開業医になっていた人も徴兵制から逃れられなかった。その場合、二等兵という最低待遇のため軍医予備員を志願しておく医師が多かったようだ。
知り合いの人から聞いた話で、子供が7人いて病院医では暮らしていけないと借金をして開業間もなくの医師が徴兵され、医院を閉鎖、医師の実家へ家族を預け出征。もともと体が丈夫では無かったが医師ということで徴兵されたらしい。徴兵されてから軍医予備員を志願したが、約半年兵隊としての訓練を受け待遇は一般の兵隊としての給料しか貰えなかったため、家族の生活は悲惨なものであったという。
中国で軍医として働いたが、間もなくリウマチ様の症状が出て軍隊の移動に際しては担架で運ばれる始末で、帰国。心配した先輩に保健所の所長の椅子が空いている、座ってるだけでよいからと世話をしてもらい、何とか家族を養うことが出来るようになったそうだ。何としても戦争は避けたいものである。
内田 徹夫(文京区)
(『東京保険医新聞』2016年5月25日号掲載)